ナラティヴの研修でディスカッションの時間に、ある人がポロっとこぼした言葉が、とても印象的で頭に残っています。
「私は悲しいと思ったけど、あなたの悲しいとは、どう違う?」
こういう聞き方ができるんじゃないかっていう話なんですね。色々短縮されているけど、つまり、
その話を聞いて、あなたがとても悲しんでいるのだと私は感じました。私の感じている”悲しい”と、あなたの”悲しい”が同じかどうか、少し確認させていただけますか?
っていう意味です。
参加者の方がサラッと発言した言葉だったけど、私は共感について考えさせられるように思えて、心のメモ帳にしっかり残しておきました。
安易に「わかる」と言わない
まえに読んだカウンセリングの本で、安易に「わかる」と言わないほうが良いと書いてあって、それも頭にずっと残っています。
何年も何か月も苦しんで、悩んできた人の本当に意味するところは、たった数時間、数分の会話だけでは理解できない。
「わかる」と言えば共感しているっぽいけど、簡単にそのゴールに辿り着いてはいけない。
みたいなニュアンスです。
私はこの説明を読んでから、「わかる」という言葉を使わないように気を付けるようになりました。(笑いが起こる場面では、テンション上がってつい使っちゃうときはある)
だけど、お話を聞いていると自分の体験が思い起こされて、特定の感情が刺激される瞬間があるんですね。
そういうときは、クライアントさんのエピソードを聞いているんだけど、自分が同じ場面を体験しているように感じて、その気持ちに名前をつけて言葉にしたくなります。
この場面でつい「気持ちを理解できた!」と思ってしまうんだけど、たぶんこれは同情・共鳴であって、共感ではないのかもしれない・・・
同情・共鳴がプラスに働くときもあると思います。ノンバーバルな雰囲気とか表情から、なにか届くものもあるだろうし。だけど、これを共感だと思ってはいけないんだろうなって。
私の悲しいと、あなたの悲しいは、どう違うのか?
お話を聞いていて共鳴するところがあって、私は自分のなかにある素材と照らし合わせて「悲しみ」を感じたとします。で、クライアントさんも「悲しい」という言葉を使ったとします。
だけど、私の感じる悲しいとクライアントさんの悲しいは、本当に同じなの?
楽しみだったケーキを食べられた
たとえば、楽しみに冷蔵庫にとっておいたケーキを勝手に食べられて悲しい、という話があがったとします。
同じできごとを体験していたら、そのとき「悲しい」と感じることは自分の記憶と照らし合わせて想像できる。
だけど、私はお店から買ってきたケーキを食べられたのに対して、相手は何度も練習して作った手作りケーキかもしれない。
ケーキの意味
相手が話してくれたケーキには、
小麦粉アレルギーになって大好きなお店のケーキが食べられなくなり、どうにか同じ味を米粉で再現しようと何か月も頑張って作って、やっと完成したケーキ
という意味があるかもしれない。
私が過去から引っ張り出したケーキのエピソードは、
食べログで見て評価がよくて、でも数量限定で何度通ってもゲットできなくて、有給とって開店前から並んでやっと購入できたケーキ
という意味かもしれない。
楽しみに冷蔵庫にとっておいたケーキを食べられたという経験、そこに名付けた「悲しい」という言葉。これらは同じだけど、悲しいの意味合いはだいぶ違う。
だからこそ。
「その話を聞いて、あなたがとても悲しんでいるのだと私は感じました。私の感じている”悲しい”と、あなたの”悲しい”が同じかどうか、少し確認させていただけますか?」
っていう確認が、とても大事なんだと思う。
その言葉が生まれた背景こそ、そのひとの人生の物語があって、大切にしたいことが埋まっているから。