いつの間にか集団に入ると周りの出方を見て、自分の振る舞いを決めるようになりました。
先生の期待や友達が求めていることが感覚でわかるから。
幼稚園の先生に「ももちゃん先生」と呼ばれると、その役割を当たり前に受け入れて大人の言動を観察し、同じように振舞いました。
人の理想を具現化する物
思春期に両親が離婚しそうになると、「家族が元通りになるには、私はどんな振る舞いをすればいい?」と考え、母が求めていることを読みました。
- 笑顔で家事をしてくれる
- 言わなくても手伝ってくれる
- ご飯を美味しそうに全部食べてくれる
なるほど、そこを抑えれば気が休まるのね。だったら笑顔で母を全肯定する娘になろうと思い、その通りに振舞いました。
家族のなかに居場所を見つけて笑顔になって欲しいから、言動を観察して理想を読み、自分の体を通して具現化する。
自分のキャパ、好き嫌い、スキルの有無は眼中にない
社会人になっても、やることは同じです。
- 集団の目的は?
- 誰が最も影響を与えている?
- 私に求められていることは?
など考え、周りの言動に注意を払って脳内にダウンロードし、自分の体を媒体に全身全霊で具現化します。
誰かの望む「誰か」として振舞うとき、自分のキャパや好き嫌い、スキルの有無は眼中にありません。
上手くできないと強く自分を責め、知識が足りないと思って勉強したり、行動して周りに働きかけたりしました。
体調を崩していることも気づかず心にも影響が出て、ある日突然1歩も動けなくなってしまうんです。
他人軸で生きていることに気づかない
求められることをコピーして体現しないと私が消えちゃう。
自分の何かが間違っていて受け入れてもらえない存在だけど、その気持ちを表に出したら生きていけないでしょ?
だって他の人は自分をしっかり持っているように見えるし、みんなが正しくて全てを知っているんだろうから。
こんな風に考えていたようですが、自覚はありませんでした。
他人軸で生きていることに気づかず、いつも罪悪感・不安・焦りといった感情に支配されていました。
自分をわかって欲しいと思わなかったし、「もっとこうしてよ」と要求する考えも浮かばず、人に期待してないことも無自覚でした。
自分がどこにもいない気がする
とくに社会人になってから、仕事や人間関係、ダイエット、お金の管理に悩まされました。
頑張っても、頑張っても、心にポッカリあいた穴が埋まらず、何度も自分がいなくなる恐怖に襲われました。
日々の出来事一つひとつを吟味する間もなく、置いてきぼりになっている感じ。
流れの早い川で溺れ、息ができない恐怖から逃げるために休まずもがき続けるような。

そんな毎日を過ごしていて、ふと疑問が浮かびました。
そこに私はいるの?
確かに自分がどこにもいない感覚は正しくて、自分の意思がなかったんですね。とにかく息苦しさから抜け出したかった。
誰かの意見がないと決められない
なんとなく常識っぽい、幸せや大人の条件など、誰が決めたか知らない価値観に流されている自分にうんざりしながら、軸も境界線もなかった。
だから、誰かが決めた基準にしがみつくしかなかったんです。
新月の夜に願望をノートに書くと叶いやすいと知って、考えてみたけど全然浮かばない。
何かを欲するのは良くないと思っていたらしく、「私は〇〇したい」と自分を主語に話すことが極端に少ないと気づきました。
人と意見が食い違っても胸を張って主張する勇気がなく、誰の意見も聞かずに自分の道を決めたことがなかった。
他人の意見がないと溺れそうな恐怖がありながら、自分がどこにもいない不安に襲われていたと気づいたんです。
気質と性格を知ったら生きやすくなった
気質や性格を知れば知るほど自分が浮き彫りになって、どれも私の特徴だとわかりました。
他人軸になりやすいのも、相手の言動をコピーするのも、理由が明確になると扱い方がわかるようになり、どんどん生きやすくなりました。
さらに浮き彫りになった自分を基準に人も観察してみると、みんな同じように『罪悪感・不安・焦り』を持っているのだと知りました。
「みんな」と「私」は違うのだと気づいたら、実は同じだったとわかりました。
ずっと知らずにコピーしていた感情は、みんな隠しているだけで心の中に持っているのだと。
少しずつ自分として生きる希望を積み重ねると、本当にやりたいことに気づけるし、人と接する自信にもなる。
だから私は気質と性格を通して、自己理解を深める素晴らしさを伝えていきたいのです。
あなたは「自分」として生きていい。一緒に自分らしさを見つけよう。