「みんなと仲良くできる」が通用しなくなったとき

こんにちは、ももか(@momohsphss)です。

社会の中でどうやって生きていけばいいのか。私は誰のために何ができるのか。そんなことばかり考えていたら、人と関わるときの拘りに気づきました。

みんなと仲良くできるはずだった

振り返ってみると、小さい頃からいつも友達と一緒にいて、ひとりで遊ぶことがなかったんですね。嫌いな人もいなくて、誰とでも仲良くなれると思ってたんです。

小学生のころから、グループに所属するのが嫌で、クラスの中心の子と仲良くやりながら、隅の方で漫画書いているような子とも遊んでました。

中学生になると、学年中の女子から嫌われている子とも「一緒に遊ぼうよ!」って言って、一番の親友になりました。

小学校と中学校は生徒数が少なかったので、学年で嫌いな人がいないと思ってて、学年全体で一体感を感じていました。

それが高校生になると、規模が大きくなって同じ学年でも知らない人がたくさんいて。「みんな」の規模が大きくなって、まさに【適応障害】になりました。

自分が病院に通いながらも、心が不安定になった友達をずっと励まして、学校に居場所ができるように接していました。

社会はもっと意味不明

社会に出て仕事をするようになって、もっとわからなくなりました。

本音と建て前?根回し?パフォーマンスで怒る?

意味不明です。

「何のためにやるんですか?」
「なぜ必要なんですか?」
「誰が求めてるんですか?」

って、本当は知りたかった。不満とか相手が嫌いとかじゃなくて、ただ理由と目的が知りたかったんです。

自分の評価のために部下を利用している上司。

上司の前では「もちろん!やります!そうですよね!」と元気に答えるのに、いなくなったら「できるわけねーじゃん。めんどくせー」と態度が変わる先輩。

そういう器用に乗りこなす人もいれば、まじめ過ぎて抱え込んで苦しんでいる人もいて。

みんなが同じくらい楽しんで、笑っててほしいのに。

会社なんて箱だけで、夢を語るのは説明会のときだけじゃん。中身は損得で牽制し合って、面倒をいかに避けるかを考える人たちばかりじゃないか。

そうやって、私はいつの間にか、社会に絶望していたようです。

それでも社会で生きていく

社会に絶望している自覚なく、何度も「もうやだ!ひとりでやる!」と、集団から外れようとしましたが。

いつのまにか、チームを作ったり、協力してくれる人が現れたりして、ひとりになれないんですよね。

それでやっと、気づきました。私は社会で生きていくのだと。

だから、価値観の違いを知る必要があったのだと思います。社会の中で、誰のために何をしていくのかを見つけるために、必要な経験だったのだと。

誰とでも、みんなが同じように、というのは現実的ではないとわかりました。

だって価値観や性格が違うから。大切にしたいものが違うし、嫌だと感じることも違う。

当たり前なんだろうけど、この歳になるまでわかりませんでした(/_;)

「みんな」を少しずつ広げられるように、コツコツやっていこうと思います。

関連記事